TOKYO TRAVELOGUE東京紀行
在りし日の御茶ノ水
2021 Summer
昼下がりの外堀通り。水道橋の駅を背に、照り付ける太陽と右手眼下の水面を吹き抜ける風をわずかに感じながら、ゆっくりと歩を進めていく。そう、ここ「お茶の水坂」は江戸時代から存在し、浮世絵にも描かれた名所だ。水道橋駅から順天堂前交差点まで、750mものだらだらとした上りが続いている。
やっとの思いでこの坂を上り切り、そこから地下鉄御茶ノ水駅の手前を右に折れて「お茶の水橋」の中央から秋葉原方面を望むと、都心では珍しい渓谷状の地形が一望できる。
実はこの場所、江戸の初期までは神田山と呼ばれ、本郷台地と地続きだったという。飲料水確保と江戸城の防御のため、山を真っ二つに分断して造られた人工の河川が、この神田川らしい。勿論、重機なども一切無い時代、あれだけの谷を手作業で掘削する、当時としては相当大きな開発だったろう。
ところで、「御茶ノ水」という地名は、この地に位置していた高林寺という禅寺に由来する。徳川二代将軍秀忠の時代、高林寺の境内には清水が湧いており、先の工事により、水脈を当てたことから湧き出したといわれているが、秀忠はこの水を大層気に入り、徳川家の茶の湯にはこれを用いるよう命じた。まさに「お茶の水」が地名の由来なのだ。
残念なことに、明暦の大火後、高林寺は文京区の向丘へ移転。清水が湧いていたという場所も、享保14年に行われた神田川の増幅工事により、川底に沈んだと記されている。
そうして江戸の生活を支えた神田川だが、明治に入ると飲料水として使用されることはなくなった。その後は兵器工場の工業用水、高度経済成長期には生活排水の流入により水質汚染が深刻化し、一時は「死の川」とも言われた神田川。近年では処理場が整備され、鮎の姿を見られるほどに改善されたというが、まだこの濁った川からお茶を楽しむほどの名水が湧いていたとは到底信じられない。
かつては蛍舞う美しい渓谷として、当時の風流人から茗渓と呼ばれた御茶ノ水。またいつの日か、そんな姿を見られる日がくるのだろうか。先人が名付けた、この清らかな地名に恥じぬよう、美しい自然や風景を取り戻すことも我々の役目なのではないのかと、少し感傷に浸りながら駿河台下方面に向かってさらに歩みを進めた。